【塾長理念】
お客様の尊敬を得る
商いとは、信用を積み重ねてゆくことです。事実、私たちを信じてくれるお客様が増えていきますと、ビジネスにも多くを期待できるようになるのです。
しかし、私は、まだこれ以上のものがあると思っています。もちろん信用は不可欠です。いい品物を安く、正確な納期で、そして素晴らしい奉仕の精神でお客様に提供することで、信用は得られます。しかし、もし売る側に高い道徳観や人徳があれば、信用以上のものが得られるのです。お客様から「尊敬」されるようになるのです。
私は、商売の極意とはお客様の尊敬を得ることだと思います。お客様から尊敬されれば、たとえ、他の会社が安い価格を提示しても買って下さるでしょう。
徳性があるということは、優れた価格、品質、納期などを提供すること以上のものを意味するのです。ビジネスをする人間が身に付けるべきは「哲学」なのです。言い換えれば、人を自然に敬服させる器量なのです。この資質を身に付けることを学ばなければ、大きな事業を進めることはできません。
お客様の尊敬を得ることが、長期にわたる事業の成功につながるのです。
【私の好きな言葉】上村松篁(画家)
歩々清風
今から二十年程前の事である。長岡岬塾の老師から輝の話を承る機会があった。その或時「道」 と云う字についてお話しがあった。
「道」と云うのは「首」を捧げて走ると云う事である。その道は永くても短くてもよいのであるが自ら行じなければ道とは云いえないと云うお話しをきいた。途端に私は尾艇骨から背筋を通って突きあげる感動があった。涙が込み上げて来たが人前なのでこらえた。
よかったと思った。
それからもう一つ千里の先にキラリと光る、一寸の針の話をきいた。千里の先の一寸の針を拾うためにあえて苦難の道を歩む。 千里の先の一本の針をようやく拾った時にまた千里の先の針がみえる。そしてまた修業を続ける。目を閉じると古今東西の名画が見える。美しい自然が見える。自然の花鳥。そしてそれらに導かれて日日道を歩んでゆく。
【塾長講話-第十七回】
中小零細から中堅企業へ
そして大企業に発展するためには何が必要か
《単純な仕事を事業のレベルにまで高めた京都企業の経営者魂》
多くの皆さんは、ベンチャービジネスというと立派な技術、特殊なノウハウを持った人たちが大企業をスピンアウトして事業を起こすというイメージを抱いていらっしゃいます。しかも、ベンチャーキャピタルが資金的援助をしてくれるものだ、というような華やかな側面ばかりを見ておられますが、決してそうではありません。
いまここにいらっしゃる皆さんは、何らかの形ですでに事業を営んでおられます。親から引き継いだ仕事もあれば、自分で起こされた仕事もあるでしょう。ところが、その仕事たるやベンチャービジネスと呼ばれるような華々しいものとは違う、どこにでもあるような仕事、もっと極端に言うと仕方なく親から引き継いだ仕事といった感覚を持っておられる人も多いと思います。
しかし私は、もし版にそういう考えを持っておら れる後継者の方が、あるいは創業者の方がいらっしゃるなら、その考え方は間違いだと言いたいと思います。そんな考えはぶち壊してしまうべきです。
京都という町はよく、ベンチャー企業発祥の地であるかのように言われます。たしかに、ローム、ワコール、オムロン、村田製作所、任天堂、それに京セラといった高収益の会社があります。
京都のそういう企業は日本のべンチャービジネスの成功例としてよく引き合いに出されますが、決して最初から高度な技術や優れたノウハウを持っていたわけではありません。自分の仕事については、素人か、もしくは素人に近い人たちであった、ということです。
電子部品メーカーとして世界的に有名な村田製作所さんは、戦前は従業員二、三人の小さな清水焼の窯元でした。それが軍部の要請で酸化チタンの研究をはじめられ、それをきっかけにコンデンサーの開発に成功して以来、戦後、エレクトロニクス用コンデンサーの将来性に着目し、独自の製品を次々と研究・開発して電子部品メーカーとして現在の地位を築かれたわけです。創業社長はまだご健在ですが、エレクトロニクスに関しては初めはまったく素人でした。
ワコールの塚本幸一さんは、たいへん悲惨な戦いだったビルマのインパール戦線で部隊が全滅に近いなかから奇跡的に復員されました。復員船の中で、「五十人もいた部隊でたった三人しか生き残らなかったのに、自分が生き残ったのは神様が生かしてくれたとしか思えない。日本に帰ったら、国のために役立つことをしよう」という人生観を持って京都に帰ってこられました。アクセサリーの行商から始め、まったく縁のなかったブラジャーに着目して研究を重ね、女性下着の一流ブランドの企業を育てられました。
ロームの佐藤研一郎さんは、もともと音楽家をめざしておられたそうですが、ピアノコンクールで準優勝にしかなれなかったことでその道を諦められたそうです。そして大学の工学部在学中に、炭素皮膜抵抗器という非常にプリミティブな抵抗器のパテントを取り、卒業と同時にその製造を始めて、今日のように企業を大きくしてこられました。どこかの企業に勤めて勉強したわけでもなんでもなく、大学時代には音楽家を志したエレクトロニクスには素人な方が大変な半導体不況の中、素晴らしい収益をあげておられます。
任天堂の山内連さんは、もともとトランプや花札を作っておられた会社の跡取りです。それがいまや、ファミコンで世界をマーケットにする企業になっておられます。
私の場合、大学時代は化学が専攻でした。当時、石油とか樹脂とかいった有機化学は将来性があるということで学生たちに人気がありました。しかし私は、結果的に松風工業という焼き物の会社に就職することになりました。そこで泥縄式に無機化学の先生に頼んで、卒業論文を仕上げることにしました。 仕方なく専門外の松風工業に入った私でしたが、四年間でなんとか商品化できるファインセラミックスを開発することができました。
そのように、いまベンチャービジネスの成功者と言われている人たちに共通しているのは、初めは皆“素人”だったということです。
アメリカで発行されている雑誌等を参考としたある統計によれば、売上経常利益率の世界ランキング五十位の中に、村田製作所、ワコール、ローム、京セラという京都の企業が四社も入っています。いずれの企業を見ても最初から高度な技術を持っていたわけではありません。
企業というのは、初めから見込みがあってスタートするものではありません。蝶よ花よと周りに騒がれ、事業を起こすことがけが、将来性のあることとは限りません。なんの変哲もない、なんの魅力もなさそうな事業を魅力あるものに変えるのは、後を継いだ人間の才覚と経営者魂です。どこにでも転がっていそうな、身内ですら継ぐのを嫌がるような仕事を、素晴らしい事業に育てあげるということが実はベンチャービジネスなのです。そういう人こそが、まさに起業家なのです。
《しがない仕事を高収益事業にした才覚》
京セラは、三十年前からすべての事業部がアメーバ経営による独立採算になっており、それらのアメーバがいま素晴らしい業績を上げています。なかでも三年前につくった「流通事業部」は税引き前利益率が約二十五%という素晴らしい実績をあげています。
この流通事業部は、各事業部の製品の検査が終わった後、包装、箱詰め、発送を担当するところです。箱詰めしたものをいったん倉庫に保管し、そこから各得意先に配送するわけですが、北海道から鹿児島まで日本中の工場で作った製品が、いっせいに全国各地のお客様のところへ移動するわけですから、倉庫の管理も、荷造りも発送も実にたいへんです。
それをなんとか合理化しようということで伊藤藤社長が国内の流通の全部門を共通にして独立採算の事業部にしたのです。この流通部門だけは、それまで独立採算になっておらず、共通の管理部門として各事業部で経費を負担していました。そのために徹底的にムダを排除し、運送会社のルートまで厳しくチェックして、実費に近い形で運営されていました。
そのように厳しい状況の流通部門の事業部化に、「私がやりましょう」と名乗り出た男がいました。彼は滋賀県にある工場の工場長をやってた人ですが、事業部を始めるにあたって「各事業部が今まで、経費として払っていた金額を頂けば結構です」と言いました。それを聞いた各事業部の人たちは、今後もそれまでの実費相当分を払えばいいということで大喜びしました。
しかし、実費に近い形で運営していた分の費用を貰ったところで、普通に運営したのでは利益は出ませんし、事業にもなりません。なのに彼は、「実費だけちょうだいして、あとは自分たちで創意工夫をして事業にします」と宣言したのです。
彼がまず取り組んだのは、梱包作業をしていた人たちの生産性の向上、倉庫運営の合理化、それから運送会社に対して配送ルートの見直しをはじめとする価格交渉を根気強く行いました。
その結果は、実に素晴らしいものでした。九月の半期決算で約二十億円の売上高、五億円弱の税引き前利益を達成したのです。つまり、いままで各事業部が払っていた実費を実質的に消してしまい、おまけに利益までも生みだしたのです。
このことには、実は素晴らしい教えが含まれています。誰もが儲からない、つまらないと思っている仕事、厳しい京セラが管理をしてもう一滴のしずくも出ないと思っていた流通部門が、「一生懸命にやったら儲からないはずがない」という一人の男の信念で、年間売上約四十億円という立派な事業になったのです。
私は、そのように皆が儲からないと思うようなことを事業にするのが本当の事業家だと思います。「自分がやっているのはしがない仕事だ」「親が亡くなって仕方なく継いだが、たいした仕事ではない」と、自虐的になっていらっしゃる方がいるとすれば、私は声を大にして言いたいのです。
「そうではありません。たとえ親から引き継いだ仕事であっても、あなたがそれをつまらない仕事だと思っていることの方が問題なのです。その仕事は決してつまらない仕事ではありません。それを大企業に仕上げるのが、あなたの役目なんです。そのためには、あなた自身の考え方を変えなければいけないのです」。
京セラ・流通事業部の目から見れば、クリーニング屋さんでもうどん屋さんでも、もう宝の山なのです。「この商売はしれている、たいして儲からない」と思い込みがちなところを、「一生懸命やってるんだから、儲からないはずがない」「やりようによってはもっといけるはずだ」と、ポジティブな方向で考え、限りなく可能性を追求する姿勢があるかないかで、実は物事の結果は決まるのです。
《下請けいじめは愛のムチ……それで鍛えられた経営努力》
私が初めてセラミック製品を売り込んだのは、松下電子工業です。 品物はブラウン管の電子銃に使われる絶縁材料で、私のところが100%納めていました。 逆に言うと、松下さんが買ってくれなければ、京セラはすぐに潰れるという不安な状態でした。松下さんの購買部はたいへんシビアなところで、いろいろな理由をつけて値引きを要求されました。「仕入れ数量が倍になったんだから、十%値引きしてほしい」「製造を始めてから一年経ったんだから、製造工程も合理化されただろう。その分安くしてほしい」といった具合に、あらゆる機会を通じて値下げを求められました。
「もう値下げは無理です」と言うと、「それでは決算書を見せてほしい」と言われました。 利益の出ていないように少しばかりごまかした決算書を持っていくと、そこは見ないで、一般管理費のところだけ見て「君みたいなところの中小企業で八%も管管理費が要るわけないだろう。三%でよろしい。五%分は負けなさい」といった具合で、ああ言えばこう言う、こう言えばああ言われるというように、とにかく値切られました。
そのように厳しい松下さんに部品を納めている中小企業の親父さんには、二通りのタイプがありました。三分の二くらいの人たちはたいへんな不満を持っていて、「松下も最初は中小企業やったやないか。それがちょっと大きくなったら、威張りくさって」などと、しょっちゅう文句を言っていました。しかし、結局そんなところはたいていつぶれました。
私は、そんな文句を言っても始まらないと思い、「値切れるなら値切ってみろ。それでも自分は頑張る」とばかりに、最後には居直ってしまいました。
「もういくらでも結構ですよ、値段はそちらで決めてください。その代わり一度決めたら、もうそれ以上の値引きは言わないでください。私がどのように努力し、どれだけ儲けようと黙っていてください」。
するとべらぼうに安い値段を提示されましたが、私は黙ってその言い値を飲みました。そして、どうやったらその値段で採算がとれるか、必死に考えました。大学出の従業員には、「大学で少しは勉強してきたやろう。品物をどう安く作るか考えるのが、勉強してきた値打ちや。とにかく、どこよりもとことん安く作れる方法を考えてほしい」と指示して、皆で生き残りの道を探りました。
大企業に値切られ、生き血を吸われると発想した経営者は自滅し、私のように「下請けいじめは愛のムチ」と発想してその困難に敢然と立ち向かったところだけが生き残ったわけです。
京セラが今日、世界の電子部品メーカーとして力を蓄えられたのは、松下さんのあの厳しい購買姿勢に鍛えられたからです。恨みを抱いて潰れていった企業に較べ、私は恩こそ感じても恨みなんか一切ありません。下請けに対する厳しい要求を、恨みで迎えるか、感謝の気持ちで対応するかで企業の道も、経営者の人生そのものもがらっと変わります。値切り倒されて、儲けなんかありそうにもないという状況のなかでも、考え方ひとつでその壁を乗り越えて儲けるのが事業家なのです。
《京都企業に共通する経営者気質みなもとは「誰にも負けない努力」》
事業を成功させた京都の経営者には、共通した経営者気質みたいなものがあります。
一つは、冒険心が強いこと。二づ目は、挑戦的であること。三つ目は、勝ち気で負けん気の強いこと。四つ目は創造的であり独創的であること。言葉を換えれば、普通一般にそうだそうだというようなことに満足しない、つまり常識的なことに満足しないこと。五つ目は、正義感にあふれていること。六つは、陽気で積極的なこと。七つ目は、反骨精神というか反権力的精神の旺盛なことです。
そして最後になによりも強く共通しているのは、たいへんな努力家であるということです。その人たちは、終戦のあの苦しいなかを必死に頑張って生きてきた、勤勉な人たちです。戦後の荒廃のなか、食べるものもロクにないというせっぱ詰まった状況のもとで、旺盛なハングリー精神を発揮して企業を起こした、つまり“誰にも負けない努力”をしてこられた方たちなのです。
“努力”という言葉で最近とくに感じるのは、内村鑑三の『代表的日本人』に書かれている二宮尊徳のことです。一農民だった尊徳は、当時の荒廃した農村を鋤一本、鍬一本で豊かな村へと変革していきました。農耕用の牛や馬すら売り払ってしまったような、さびれた貧しい村の無気力な人たちに、彼はその熱意で奮起を促したのです。二宮尊徳は自ら率先して、朝は朝星と共に目覚め、夕方は夕星を仰ぐまで田や畑で働き抜きました。
内村鑑三は、二宮尊徳を表現するのに「至誠の感ずるところ、天地もこれがために動く」と言っています。つまり、二宮尊徳が誠心誠意、必死で努力している姿を見て、天も地もその試実さや真面目さに感動して動く、と言ったのです
京都のベンチャー型経営者の方々は、はじめは素人で何の技術も持っていませんでした。しかし、勤勉で、一生懸命に努力をする人たちであったため、運がついて大成功をおさめられました。実は、くそ真面目に一生懸命になるということが、運のつくもとなのであって、まぐれでは運はつきません。あまりにもひたむきであるがために、神様も情にほだされて、 ついなんとかしてあげたいと思う、それほどの努力をした方々が今の地位を築かれたのです。
もう一つ大切な共通点は、数字に強い人たちであったということです。つまり、儲かるか儲からないか、売上から経費を引いて利益が出るという、損益計算が分かる人たちでした。経営者は、計数に強くなければ絶対にだめなのです。
《発展の原動力は“危機感”と“飢餓感”》
そのような共通の気質を持った京都の経営者の方々が、どのようにして発展していかれたのか、その過程を見ると面白いものがあります。これらのことは、いまの皆さんの事業にも当てはまるのではないかと思います。
まず、素人であるがゆえに技術がありません。あったとしても、せいぜい単品生産しかできない程度のもので、しかも非常にプリミティブな製品しか作れません。そのため、いつお客さんに愛想をつかされるかも分からないという不安な状態、つまり常に危機感と飢餓感にあふれた状態でした。私の場合も、まったく同じでした。
皆さんの場合もそうではないかと思います。親から引き継いだあまり将来性もなさそうな仕事なのに、人件費ばかり上がってお客は減る、このままでは会社は危ないという不安感が常につきまとっている方がいらっしゃると思います。経営者というのは、外見は豪放磊落、剛胆そうに見えますが、実は内心では細かいところまで気配りをし、神経を使っているという非常に小心な人なのです。剛胆な人がいい経営をできるというのは嘘で、どちらかといえば小心で常に不安感を持ち、危機感を持った人が経営をしなければ会社は伸びません。
次に、素人だから自由な発想ができたことです。彼らは既成の概念や慣習にとらわれずに、すべてのことに疑問を差し挟み「なぜだ?」という発想ができたのです。また危機感の横溢したなかて、なんとかしなければいけないという気持ちは強いものの、技術系の学校を出ているわけでもなく、さしたる技術もないという状況が、創意工夫を生み出したのです。
創意工夫といっても、素人ですからたいしたことは考えつきそうもありませんが、なんとかしなければ……ということを毎日毎日考えているわけです。そして、そのためには専門家が必要だ、よし、他の経費を節約してでも大学で専門の勉強をした人を採用して研究・開発をしようと考えます。
その結果が、任天堂さんのファミコンへの進出、ワコールさんの下着専門メーカーとしての展開、ロームさんや村田製作所さんの新製品開発という他社の追随を許さない独自の路線を決めたのだと思います。
先だって、東京へ向かう新幹線の中で有名なお茶の会社の方から声をかけられました。
「稲盛さん、お休みのところ誠に申し訳ありませんがちょっと相談したいことがあります。実は、私はいま研究・開発をしないと不安なものですからその部門をつくり、大学を出た人を採用してやらせているんですがそれでいいんでしょうか」。
そこで私は、次のように申し上げました。
「私は若い頃から緑茶がたいへん好きで、ずっと玉露を飲んでいます。お茶は酸化が非常に早く、どんなにいいお茶でも一夏越せばあの瑞々しい色は出ませんし、香りも失われてしまいます。それに較べて外国の一流の紅茶だと、一年経っても二年経っても素晴らしい香りのする美味しいお茶が飲めます。よほど品質管理がしっかりしているのでしょうね。あなたがお茶の研究をなさるのなら、例えば品質管理なら品置管理というようにテーマを決めて、その専門家を雇ってなさるべきじゃないでしょうか。研究というのは、ただお金をかければいいというものではなくて、何を解決するかというはっきりした目的のもとにやるべきものです。はっきりした目標のないお守りみたいな研究なら、止められたほうがいいのじゃないですか。要はあなたが、日本茶をどうしたいのか、ということなんです。研究をなさるのなら、それに対する研究をなさるべきじゃありませんか」。
《中堅で成功安定を得る唯一の方法は「事業の多角化」》
研究開発には、いろんな展開方法があります。例えば、土木事業をしておられる方なら、土木工事だけではなくそれに関連した事業に進出するというふうに、自分の得意技をさらに磨くのも一つの方法です。
例にとった京都の企業群は、最初はすべて単品生産で、それが売れなくなれば会社はおしまいですから、何とかしなければという危機感、飢餓感にあふれていて、主力製品がうまくいっている間に次の製品を育てられました。
そこが大切な点で、中小企業から中堅企業に発展するには、いま会社を支えている主力商品のような製品をいくつ開発することができるかということにつきます。そのような多角化が、実は企業発展の要諦なのです。
私は京セラを始めるとき、企業を安定させるものは事業の多角化しかないと思い、それを実行してきました。私がいう多角化とは、ある主力商品が駄目になっても、それにとって替われる大きな商品群を作るということです。その考え方としては、同じ分野で主力商品と同じような商品を作るか、同じ分野の延長線上でもまったく視点の違った商品を作ることが考えられます。
しかし、あるときワコールの塚本さんに、「あなたは下着を作ってらっしゃって、女性の身体に関しては専門家なんですから、下着以外のファッションを手がけられたらいかがですか」と聞いたことがあります。すると塚本さんは、「とんでもない。下着とファッションとはまったく違う世界だ」と答えられました。同じようにみえるインナーウェアのメー カーでも、 ブラには強いかショーツには弱いといったふうに、それぞれ特徴があるといったことを教えていただきました。そのように、得意技の分野というのは、当事者しか分からない側面があります。
または、旅行代理店が損害保険の代理店をするというように、まったく違った分野のものを手がけるのも多角化の一つの道で、多角化というのは柱が一本ではないわけです。
よく引用される毛利元就の三本の矢のたとえにもあるように、一本の矢は折れても三本だったら折れにくいように、確かな方向の柱を何本もつくるということが、企業を安定させ、発展させることにつながっていきます。
しかし、それはたいへんに難しいことです。一つの事業でもたいへんなのに、二つも三つものことを手がけるとなると、幾何級数的に困難さは増します。一人の人間が、二つも三つもの事業をみることはたいへんですが、それをやらなければ企業は発展しません。それを実行するためには、遊ぶ時間などとてもありませんし、それこほ普通の努力ではない「誰にも負けない努力」が必要となります。さらには、全神経を二等分、三等分して競争相手の一〇〇%に立ち向かわなければならないわけですから、努力ばかりか、神経の集中力も要求されます。
多角化とはつまり、そのようにたいへん厳しい状況を勝ち抜かなければなりませんが、その壁を突き破ってこそ中小零細から、中堅企業へと脱皮していくことが可能となります。
《ぜひ乗り越えてほしい中小零細から中堅企業への
多角化という“坂道”》
親から譲ってもらった、仕事のままだと、たいしたマーケットではないかもしれません。しかし、その仕事をいかにして多角化していくか、それはたいへん厳しいことですがそれを成し遂げて、多角化していくことが中小零細企業から中堅企業へと発展するための“坂道”なのです。“坂道”というのは、多角化のための“坂道”です。
その多角化という“坂道”はたいへんに厳しく、アトランタ・オリンピックのマラソンコースではありませんが、見ただけでひるむ人もいるでしょう。そういう人は、ずっと中小零細のままです。
ところが、「よしっ!やったうう」と思って、その坂道を上り切った人は中堅企業へと発展していくわけです。しかし、上り切れば発展ですが途中で落ちるとそれは倒産です。周囲の人はそれを見て、「親から貰った中小企業のままでやっておればいいものを、若さにまかせて無茶をして……」と笑うでしょうが、一転して成功すると「あいつはしっかりしとる。親父のときはちっぽけな事業だったのに、息子の代ですっかり立派になった」と褒めてくれます。
坂道を上ろうとしない経営者は中小零細企業のまま。上りだしてずっこけると倒産。無事に上りきったら中堅企業への道が開けます。事業発展には、そのような坂道が必ず何回もあります。ちょうど子どもたちが幼稚園から小学校、中学校、高校、大学と進むのと同じように、階段を一つずつ上がらないといけないのです。
《得意技の延長線か跳び石を打つか》
坂道の上り方には、いくつもの方法があります。製造業であれば、誰にも負けない技術の延長線上で展開する方法もあるでしょうし、商売ならば得意の営業分野のマーケットで勝負する方法もあるでしょう。
私は京セラがまだ小さいとき、「事業を伸ばしていくために、絶対に得意分野にしか手を出さない」と考え、幹部社員にもそのことを強調しておりました。
「碁でも、下手な者ほど跳び石を打ちたがる。下手は下手なりに隅っこでやって、できた目を大切にしていればいいものを、なまじ跳び石をうつから全部取られてしまう。 決して跳び石を打ってはならない」。
下手に跳び石を打てば、精力も努力も何分の一かに分散されるわけですから、得意分野で集中しないと他の専門メーカーと勝負にならなかったのです。
そのように跳び石を打たなかった私ですが、京セラをつくって三十年ほど経ったとき、初めて跳び石を打ちました。これは自分から打った跳び石ではありませんが、それまでまったく縁のなかったカメラメーカー、ヤシカとの合併です。また、CBトランシーバーというかつて無線機で大成功した実績を持つサイバネット工業買収のときも、会社が思わしくなくなり助けを求められて打った跳び石です
その後、第二電電という大きな跳び石を打ち、引き続いてセルラー、ポケット電話と打ち始めました。いま、京セラがつくっている携帯電話の端末機器はベストセラーになっていますが、実はその陰にはサバイバルネット工業の無線技術が脈々と温存されていて、通信事業の大きな跳び石同士をつなぐ役割を果たしているのです。
《謙虚にして驕らずさらに努力を》
そのように事業の多角化は困難であり、危険も伴います。しかし、誰にも負けない努力を続ける覚悟があれば、ぜひ挑戦してみてください。なにも、中小零細のままでいる必要はないのです。
私は盛和塾の皆さんに、ずっと「謙虚にして驕らず、さらに努力を」と言い続けておりますが、それは決して忘れてはならないことなのです。多角化という坂道で転ばなくても、何回も成功して会社が大きくなったとき、もともとが強気で、勝ち気で、負けん気の強い人が天狗になったら、それはもう鼻もちないくらいの天狗になってしまいます。そのような天狗になった人の鼻が折れ、事業が倒産したということは新聞記事などでご覧になっている通りです。中小企業としての成功、安定を達成した経営者には「人生観の変化」という共通した特徴があります。具体的には当初の成功欲、金欲といった「我欲」が、成功する過程で「利他」の精神にめざめる変化があるのです。我欲の抜けない人はそれが妨げになり、必ず完敗します。だからこそ、坂道を無事に乗り越えてつけた自信とともに、心を高めよう、 人格を高めようと申し上げているわけです。
多角化という坂道を上がって成功し、売上が数百億円のレベルに達したら、大体経営者は素人が玄人に近くなっています。勝ち気な人が成功して初めて数百億円ぐらいまでいくと天狗になるわけです。ですから「謙虚にして騎らず」という人生観への変化が企業家として成功するには大切です。
「心を高める、経営を伸ばす」ということを盛和塾の原点にしているのも、人間ができなければ経営はうまくいくわけがないと考えているからです。私は皆さんが素晴らしい発展をし、立派な経営者になっていかれるのを見るのが楽しく、そのことが大きな喜びであればこそ、このようにボランティアで全国を走り回っています。
皆さん、ぜひ頑張ってください
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